デモクラシーにおける絶対多数決の合理性について

正直やっつけ。1章部分をまとめたもの。
一応更新ネタくらいにはなる、かな。

ケルゼンの著作「デモクラシーの価値と本質」をもとに、私の理解を述べる。
フランス革命によってデモクラシーは全人類が共通に受容する概念の1つとなった。永く続いた資本主義と社会主義の戦いや、いまも続いている階級闘争においてさえ、傑出した政治家や有名な著述家のうち、デモクラシーに疑いを投げかける者はいなかった。今日では、たとえ内心ではデモクラシーに叛意をかかえていても、それを公然と明らかにすることは彼の人格をも疑わせるほどの無知と無理解を象徴していると一般に理解されている。
デモクラシーの感染性の高さは、自由と平等をひろくゆきわたされることに大変な効果をもたらしたが、その一方で本来はデモクラシーと相反する概念をもデモクラシーの名の下に説諭される事態を招いている。ケルゼンいわく、『すべての政治的概念の中でも最も乱用せられた』(p30L1)言葉であろう。そういった無思慮な、俗学政治的な慣用法が広まった結果として、デモクラシーという言葉はしばしば相互に大きな矛盾する意義を持つに至っている。いみじくも、かつてドイツで行われた一党独裁の歴史がこの問題を端的に表している。社会民主党と名乗ったこの政党は、まったくの民主主義的・合法的手続きに従って、完全な独裁政治を完成させたのだ。

さて、デモクラシーの本質として挙げられる2つの要件は、自由と平等である。これらは民主主義においてはかならず同時に存在した。人が社会生活を営むにあたって、彼のなかに1つの社会的反抗が発生する。すなわち、『社会生活の状態から生ずる強制に対する反動であり、自分自身が屈服しなければならぬ他人の意思に対する抗議』(p32L4)である。この反抗の他者への投影として『他者の苦痛に対する異議』(p32L5)が発生する。この反抗は社会の束縛が強くなればなるほど意識される。彼もわたしもひとりの人間である。われわれは平等である。それなら、彼がわたしを支配する権利はいったいどこにあるのか?こうしたまったく否定的な、アンチヒロイズムの理念は、同様に否定的である自由の理念を導きだす。
しかし、現実としてひとが社会にはいろうとすれば、かならず社会に従わなくてはならない。社会とはすなわち秩序である。秩序であるから支配が存在する。われわれは、支配されるならば、自らによってのみ支配されることを望む。これによって、自然的自由から社会的自由が分離する――自分自身の意思にのみ服従する社会的自由。これはデモクラシーのもっとも巧妙な論理の1つである。この『ほとんど謎のような自己欺瞞』(p35L11)によって、アナーキーの自由からデモクラシーの自由が生ずる。

ところで、よく聞かれるデモクラシーへの批判に次のようなものがある;『「イギリスの国民は自由であると思っているが、それは大きな思いちがいである。彼らは単に議員選挙の間だけ自由であるにすぎない。議員への選挙がすんでしまえば、彼らは奴隷生活を送るものであり、(筆者注:自由なものなど)皆無である」。』
この言説は一定の説得力を持っていて、たといみずからを支配する黒海市を民主的多数決によって決定するとしても、人々は投票の瞬間においてのみ自由であるにすぎない。それも、勝った多数の側に投票した場合のみである。しかしこの言明にも欠点はあって、それは言明の前提として多数決のみが意思決定の手段として利用されるとされていることである。そこで、決定する議案によっては、たとえば2/3以上の賛成を必要とする、などの条件付き多数を必要としたり、もっと極端な全員一致を求めることもある。とはいえ、全員一致など現実にはまず成立しない。社会契約説を唱えたルソーですら、国家創造における原始契約においてのみ、全員一致を要求している。しかし、原始契約においてのみ全員一致を求める合理的理由はないから、契約上の社会の存続も、構成員の継続的な同意によってなされ、各人はいつでも社会を離れる権利を保留しているものと理解される。
それでは、全員一致、あるいは条件付き多数のほうが、平等と自由をよくあらわしているのであろうか。社会契約説にしたがえば、デモクラシーは全員一致で成立した社会契約を、多数決によって修正しつつ形成していくことで満足している。
しかし、多数とともに投票したものでさえ、投票がおわったその瞬間から、投票は彼の意思を離れてゆく。これは彼が投票に際して表した意思を変更する場合にすぐに経験することである。もしその場合において、彼の変更した意思を反映するために条件付き多数が必要であれば、彼に賛同する人々を集めるのはいくぶん難しくなるだろう。もし全員一致が必要ということになれば、彼の意思を反映させることは事実上不可能になるにちがいない。かつてまったくの自由にしたがって行われた社会秩序の発生において、個人意思の保護に役立った全員一致が、その秩序からもはや逃れられないという状況においては自由への桎梏となってしまう。おまけに、ほとんどのひとは社会秩序の創造に参加したことも無ければ、その秩序から逃れることも容易ではない。そうであれば、民主主義においては、条件付き多数決や全員一致ではなく、絶対的多数決こそがもっともよく自由と平等を保護するということになるだろう。